本質はどこに

日曜日のちょっと真面目な話。

伯父のお通夜に行ってきました。

浄土真宗(仏教の一宗派)なのでお経を読みます。
「きみょーむりょーじゅにょらいー」
というもの。耳にしたことある方も多いのでは。

さて、このお経、節がついているのですが、地域により、また人により、もしかすると時により、節が微妙に変わります。
楽譜のように、音符というものが存在しないため、本を見ただけでは音読できないようになっているこの構造が不思議なのですが、とにかく様々な読み方があるのは事実です。
楽譜的に言うのなら、
「半音上げるのか、全音上げるのか」
「そこは四分音符なのか二分音符なのか」
なんてこともはっきりしない箇所が多いのです。


今日もそんな感じでした。

ただ、主導して読むのはお寺さんただ一人。
これを「導師」さんといいます。
僕を含め、他の人はただついて読む・・・のですが、ここで対応が二つに分かれます。

一つは、いかなる節で読まれてもそれについていく人。
もう一つは、自分の教わった節に自信を持ち、導師さんがどのように読んでもいつも通りの自分流スタイルを貫く人。


僕は前者です。
(子どもの頃は後者でしたが)


宗派の話で、関係ない人も多いでしょうが、そもそも浄土宗や浄土真宗の教えは「南無阿弥陀仏」いわゆる「なんまんだぶ」を唱えれば救われる、というものが本質です。
と、これだけ書くと誤解や疑念が渦巻きそうですが、深い説明を省いて要点だけを言えばそういうことなんです。
(深い説明については僕には責任をもってはできないので、興味のある方はこのブログ以外で調べてみてください)


さて、それが宗派の教えの本質であるならば、このお経の読み方そのものなんてどうでもいいことになりますので、導師さんに逆らってまで自己主張することに僕には何の意味も感じないのです。

と、宗教のことはさておき・・・


物事を考えるとき、「その本質はどこにあるのか」と問い直すと、自分がこだわっていることが、大切なようで意外と本質から離れている、なんてこともあるのかな、と感じた出来事でした。



(はいはい、今日も「そんなことわかっとるわ」話でしたね)