恩師

日曜日なので真面目な話です。



「三人の師と、三人の友と、三人のなんとかを得られれば、その人生は豊かで幸せだ」
みたいな言葉を聞いたことがあります。
(3つ目の「なんとか」は忘れてしまいましたが、流れからすると後輩とかそういった類でしょうか???)


僕には「友」という存在はほとんどいませんが、先生や先輩にはいつも恵まれてきました。
そんな先生の一人について、です。


一つの目安ですが、本当の「先生」とは、ご本人が目の前にいなくても、どんな状況でも自然に「○○先生」と呼ばれる方を言うのでしょう。また、ご本人も自然体でその敬称を受け止める方だと思います。


高校時代の先生で、生徒からだけではなく、他の教師たちからも心を込めて「先生」または「大先生」と呼ばれる方がいらっしゃいました。

その先生は国語の教師で、僕は主に漢文を教えていただきましたが、まったく、不思議な授業でした。


先生は僕が高校2年生の時に60歳で定年退職の歳でした。
若い頃はものすごく恐い先生だったそうですが、僕が出会った頃はそんな印象とは別人でした。

先生は40歳前後の頃に大病を患い、大手術をし、普通なら続けられないと言われた教職を続けてみえました。
おそらく手術後ずっとだと思われますが、出勤は娘さんが車で送り、授業に向かうときも壁づたいにゆっくりと進まれていました。
(前の授業の時間が終わる頃には職員室を出てみえたようです)

話すのも震える声でゆっくりとしか話せないため、授業もかなりのスローテンポ。
叱るときも、「ばかもぉ〜ん」と、それだけ聞くとコミカルな感じ。

なのですが、生徒はどの授業よりも緊張感を持ち、一言も聞き逃すまいという意気込みで授業に臨んでいたと思います。
宿題はほとんど出ません。(出してもチェックできませんから)
なのに、どんな授業よりも身についた実感がありました。

そんな魔法のような授業でしたので(宿題も出ないから楽チンだし)、受験生である高校三年生に授業を受けられないのは非常に残念に思っていました。


ところがなんと、先生は嘱託として、一年間授業をしてくださいました。

個人的な結果から言えば、大学受験は希望通りの結果に終わりました。
先生は僕個人のことなど記憶にも残っていないでしょうが、本当にありがたかったです。


僕らが受験を終え、先生も退職されました。



数ヶ月後、先生は亡くなりました。


「たら、れば」はありませんが、命を削った授業だったと思われます。

いつも尊敬の気持ちを持って授業に臨んでいた僕らに後悔はありませんが、「あぁ、教わったのは漢文ではなかったなぁ」と感じます。



人間は自分の背中が見えないようになっています。
僕の後に続く人には、僕の背中はどう見えているのかな…
職業は違いますが、先生を想うとき、いつも恥入る気持ちになるのです。